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2007年09月07日

日本映画その1




♪ 日本映画 ♪

日本映画は、日本国籍を持つ者又は日本の法人によって製作された映画で、ほとんどの場合、日本人の映画スタッフと俳優で構成され、主に日本国内の映画館等で公開される映画を指す。
日本では邦画(ほうが)とも呼ぶ。明治・大正・昭和初期の日本では映画は活動写真、キネマ、シネマ等と呼ばれた。以来、100年を超えて、日本映画は製作され続けている。



♪ サイレント時代 ♪

1899年
日本映画の歴史は、1899年(明治32年)に始まる。
この年の6月20日、短編ドキュメンタリー映画『芸者の手踊り』公開(東京歌舞伎座)。
これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。

同年、柴田常吉と駒田好洋が共同撮影した『ピストル強盗清水定吉』(日本初の劇映画)が上映され、主演の横山運平が日本初の映画俳優となる。

11月には、柴田常吉の撮影にて「紅葉狩」が撮影され、主演の市川團十郎 (9代目)、尾上菊五郎 (5代目)の出世作となった。

*初めてカーボンを利用した人工光線による撮影を試みた藤原幸三郎や夜間撮影を始めたキャメラマンがいる。彼らは現像などにも関わらざるを得ず、その時の枝正義郎、玉井昇、大洞元悟の果たした役割もある。

1900年
3月、吉沢商店が国産映写機を発売する。
10月。浅草六区に「浅草電気館」(日本初の映画常設館)が開設され、着色無声映画が上映される。

1904年
吉沢商店、横田商会らが日露戦争実写撮影班を現地に派遣。ドキュメンタリー映画が大ヒットする。

1907年
大阪・難波千日前に横田商会活動写真販売部直営の常設映画館「電気館」(第一電気館、大阪初の常設映画館)が開業する。

1908年
1月、吉沢商店が、東京・目黒行人坂上に映画撮影所「目黒撮影所」(日本初の映画撮影所)を開設する。
京都の芝居小屋の狂言方であった牧野省三が横田商会公開用に監督した『本能寺合戦』(日本最初の劇映画)公開。

牧野は翌年に、歌舞伎俳優の尾上松之助主演の『碁盤忠信』をヒットさせ、以降、尾上は「目玉の松ちゃん」の愛称で『豪傑児雷也』(1921年)などの作品で日本映画最初のスターとなる。

12月。有楽町・数寄屋橋きわに全館椅子席の映画館「有楽座」(日本初の全館椅子席の映画館、関東大震災で焼失)が開業。

1909年
6月、「活動写真界」(最初の映画雑誌)創刊。

1910年
10月、伊藤博文暗殺の瞬間が実写フィルムで撮影される。
11月。Mパテー商会(日活の前身のひとつ)が白瀬矗中尉の南極探検隊に撮影隊を派遣して、実録映画の撮影に成功する。

1912年
9月、日本活動写真株式会社(略称日活)、横田商会・吉沢商店・Mパテー商会・福宝堂の既成4社の合併による日本で最初の大手映画会社として発足。

1913年
10月。日本活動写真が「向島撮影所」(日本初の近代映画スタジオ)を建設し、新派の現代劇映画の製作を開始する。

1914年
4月、映画会社、天然色活動写真(天活)が『義経一本桜』(日本初の着色映画)を封切り公開する。
東京シネマが定期ニュース映画を製作開始。

1917年
日活と天活が漫画映画を製作開始。
警視庁が客席を男女別に規制する「活動写真取締規則」を公布。

1919年
7月、「キネマ旬報」創刊。
1910年代後半には、欧米流の洗練された映画に変革しようする、日本映画の近代化運動「純粋映画劇運動」が起こる。その結果、日本初の女優花柳はるみを使った帰山教正監督の『生の輝き』(1918年)、田中栄三監督の『生ける屍』、小山内薫が指導し村田実が監督した『路上の霊魂』(1921年)などの作品が生まれた。

1920年
松竹キネマ合名会社設立。
松竹キネマ合名社ができたときに、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響は大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。

1921年
2月、芝居興行の「松竹」のキネマ部が本格的に映画事業に参入。「松竹キネマ」と改称して新発足
6月、「松竹蒲田撮影所」が誕生し、栗島すみ子が入社する。
帝国キネマ演芸(通称帝キネ)創立。同年、最初のアニメーション映画プロダクションである北山映画製作所成立。

1923年
4月、日活の映画監督・牧野省三が同社を退社し、マキノ映画製作所を創立。
阪東妻三郎がマキノ映画からデビュー、のちに嵐寛寿郎のように、歌舞伎界から移籍し、映画俳優となるケースが続く。
12月、八千代生命が東亜キネマ株式会社が創立する。
*日本の映画史が二分されるというべき大事、つまり関東大震災が起きた年に米国ではパンクロマティック・フィルムが発売された。この映画技術上のフィルムの進歩が白黒映画に大きな表現力を与えた。それまでのオーソクロマティック・フィルムは赤と黒の区別がつかず、唇が真っ黒に写ってしまうが、パンクロマティック・フィルムの導入と照明におけるカーボン・ライトからタングステン・ライトへの転換は、陰影を基調とした日本映画を大きく発展させることになる。

1924年
活動写真の全国統一的な検閲作業が内務省の所管ととなる。
12月、キネマ旬報社、年間ベスト・テン映画選奨始める。

1925年
7月、内務省、活動写真検閲全国統一を行う。
9月、阪東妻三郎、独立プロダクションを設立。名作『雄呂血』を製作する。

1926年
阪東プロダクションが京都の太秦村に「太秦撮影所」(現東映太秦撮影所)を開設する。

1927年
12月、京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映太秦撮影所)が開設される。

1928年
4月、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵が独立プロダクションを設立。嵐寛プロには山中貞雄、千恵プロには稲垣浩、伊丹万作などの優れた映像作家を輩出した。

1929年
2月、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)創立。
当時は、セリフだけではなく内容を語りで表現して解説する活動弁士(弁士)付きで上映された。
1923年の関東大震災、第二次世界大戦の戦災で、燃えやすかったフィルムは消失、散逸し、この時期の作品は残存していないケースも多い。
溝口健二(『東京行進曲』(1929年)ほか)、小津安二郎(『大学は出たけれど』(1929年)ほか)などの監督も、若き日にサイレント作品を手がけ、のちの世界的評価を受ける作品の礎を築いている。
1920年代では、ヘンリー小谷監督「島の女』(1920年)、野村芳亭監督『夕刊売り』(1921年)。二川文太郎監督『雄呂智』(1924年)、衣笠貞之助監督『狂った一頁』(1926年)、伊藤大輔監督『忠次旅日記』(1927年)などが話題を呼んだ。

映画の歴史(1930年代)
1930年
2月、鈴木重吉監督『何が彼女をさうさせたか』がヒット。
内田吐夢監督『生ける人形』、溝口健二監督『都会交響曲』、伊藤大輔監督『新人斬馬剣』などの傾向映画(左翼思想を背景に社会矛盾、階級対立をテーマとした映画)が全盛となる。

1931年
帝キネが解散して新興キネマとして再生する。

1932年
五所平之助監督の『マダムと女房』(日本初のトーキー映画)が公開。トーキーの流行で、弁士、楽士らの反トーキー・ストライキ起きる。またトーキーの登場は、採算面から独立プロを直撃し、映画製作は映画会社が専門的に行う傾向が高まる。
入江たか子、女優で初の独立プロダクションを設立、溝口健二が参加。
小林一三が映画興業に進出して「写真化学研究所(PCL)」(現・東宝の前身のひとつ)を設立する。
11月、「宝塚キネマ」が設立される。コダックの日本代理店だった「長瀬商会」(現・長瀬産業)が京都の映画フイルム現像工場を分離独立させて「極東フィルム研究所」(後の極東現像所、現イマジカの前身)を設立する。

1933年
上原謙が立教大学の学生から松竹入社。新たな映画スターのタイプを作る。
3月、「映画国策建議案」衆議院で可決。映画法などの先駆け。官僚統制が始まる。
6月、銀座に「大都映画」(後の大映の前身のひとつ)が設立される。

1934年
1月、富士写真フイルム創立、国産フィルム量産を発表。同月、日活が現代劇部門を「多摩川撮影所」に移転。
2月、正月に有楽町に「東京宝塚劇場」をオープンさせた小林一三が本格的に東京進出を図り、映画館「日比谷映画劇場」を開場。
3月、内務省が映画統制委員会を設置。
日活京都撮影所の企画部長の永田雅一が退職して「第一映画撮影所」を設立。川口松太郎、伊藤大輔、溝口健二や山田五十鈴らが参加した。

1935年
11月、映画の国家統制機関「大日本映画協会」が設立される。
12月、有楽町の日本劇場の地下に戦況ニュース映画・短編映画を上映する専門館「第一地下劇場」(日本初のニュース映画館)がオープン。
1935年あたりから榎本健一がドタバタ喜劇で人気急上昇。

1936年
松竹キネマが松竹蒲田撮影所を神奈川県鎌倉の大船に移転し「松竹大船撮影所」が開設される。以降、大船調と呼ばれる独自のカラーを作った。
映画監督の自主独立・相互扶助などを目的に「監督協会」(現日本映画監督協会)が誕生する。
10月、京都にニュース映画専門館「松竹京都ニュース劇場」(関西初のニュース映画館)が開館する。

1937年
2月、小林一三が東京錦糸町に「江東楽天地」(現東京楽天地)を設立する。
4月、松竹キネマが演劇興行の「松竹興行」と合併し、映画・演劇を一元化を図り「松竹」と改称して新発足する。
5月、大阪に「大鉄映画劇場」(現きんえい)が設立される。
8月、満州国の国策映画制作会社「満洲映画協会」(満映)が設立される。
9月、東宝映画会社発足(写真科学研究所、PCL、東宝映画配給、JOスタジオが合併)。
11月、林長二郎が暴漢に襲われ、重傷を負う(林長二郎事件)。長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、新興キネマ京都撮影所長の永田雅一らに教唆され、犯行におよんだもの。林長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名

乗るようになった。
輸入配給会社「東和商事」(現東宝東和の前身)の川喜多長政が「新しき土」(日本初の日独合作映画)をアーノルド・フランク、伊丹万作監督、円谷英二の特撮で制作する。
独立プロ「片岡千恵蔵プロダクション」が解散し、社員全員が日活京都に入社。嵯峨野の撮影所は「日活京都第二撮影所」となる
独立プロ「嵐寛寿郎プロダクション(第二次)」が解散し、嵐寛を除く社員全員が新興キネマに入社する。
*この年を頂点として日本の白黒映画の黄金期が訪れ、次々と名キャメラマンも生まれた。サイレント映画時代から『狂った一頁』などで知られていた杉山公平、『浪人街』『浪花悲歌』『祇園の姉妹』の三木稔、『人情紙風船』ではハリウッドでグレッグ・トーランドの助手をしていや三村明、また『土』の碧川道夫、『五人の斥候兵』の伊佐山左三郎、『川中島合戦』の三浦光雄など多くのキャメラマンが個性を発揮し、それは戦後の黄金期まで続いた。
1938年
3月、東和商事(現東宝東和)の製作の日本と満州映画協会の協同作品『東洋平和の道』が帝国劇場にて上映される。
4月、「支那事変特別税法」が施行され、映画館に映画入場税が課税(映画入場税の始まり。平成の消費税の導入で廃止)。
12月、松竹の女優、岡田嘉子が演出家の杉本良吉と共に樺太国境を越え、ソビエトに亡命する。
東横映画設立。
大阪毎日新聞がニュース映画、文化映画を製作する映画部(現・毎日映画社)を設置する。
神戸の富豪、池長孟(のち淀川長治の姉と結婚)が、アメリカから輸入したカラー映写フィルムで東京・大阪・神戸の市街を映写撮影する。
1939年
4月5日。「映画法」(映画の事前検閲など国が直接に映画内容に関与した法律。1945年11月廃止)が公布。自由な映画製作が不可能となる。
佐藤武監督『チョコレートと兵隊』(1938年)がのちの太平洋戦争中、アメリカ国務省が編成した対日宣伝研究プロジェクト・チームによって、日本人の国民性研究の最も適当なテキストと考えられ、英語字幕を入れて研究試写に使われた。
30年代では伊丹万作監督『国士無双』(1932年)、『赤西蠣太』(1936年)、小津安二郎監督『生まれてはみたけれど』(1932年)、山中貞雄監督『抱き寝の長脇差』(1932年)、『丹下左善余話百万両の壷』(1935年)『人情紙風船』(1937年)、内田吐夢監督『人生劇場』(1936年)。成瀬巳喜男監督『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、溝口健二監督『浪華悲歌』、『祇園の姉妹』(1936年)、野村浩将監督『愛染かつら』(1938年)、山本嘉次郎監督『綴形教室』(1938年)などの作品が発表された。
posted by abelu at 19:54| Comment(2) | TrackBack(2) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by 初めて見ました! at 2008年02月11日 15:01
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Posted by スマホライブチャット at 2011年05月24日 01:45
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